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〒028-7917 岩手県九戸郡洋野町種市57-109

東長寺2

秋峰山(しゅうほうざん) 東長寺(とうちょうじ)について

宗旨・本山

曹洞宗(禅宗)。本山は、福井県・永平寺 横浜市・総持寺。

東長寺の概要

開山は、寛永7年(1630年)と歴史ある寺院です。(鞭牛和尚の初住職の寺)

城を中心に栄えた地

岩手県洋野町(旧種市)の中心部から約10キロ山間部に入った城内地区。 地名が示すように、ここに城内がかつて城を中心に栄えたもと「種市」であり、 歴史と文化の発祥の地です。

古来からの馬産地、戦国末期に種市中務(なかつかさ)が種市城を構え、 戦時にたてこもる山城(町文化財)もありました。

城内には、城にちなむ地名も多く、城主の飲み水をくむ井戸があった「御前水(ごぜんみず)」、 弓や鉄砲の訓練場だった「的場(まとば)」、神楽を楽しんだ「神楽屋敷」などが 往時を彷彿とさせます。

豊臣秀吉の命により、南部氏領内の48城のうち種市城を含む36城が破却(1592年)され、 数十年後、城があった地に東長寺が開かれました。

いま、東長寺本堂の正面に立つと、右に大銀杏(いちょう)、総門が見え、参道沿いに 鎮守の熊野三社があります。

この大銀杏の「こぶ」に触ると、よくお乳が出るという昔からの言い伝えがあります。

種市氏代々の居住地(鞭牛和尚の初住職の寺)

本堂前の碑に次の寺歴が刻まれています。

秋峰山東長寺は、寛永7年(1630年)、宮古市津軽石瑞雲寺六世・本室壽宗大和尚を開山とする 曹洞宗寺院である。(略)

種市の名の由来は宝亀年間(770~780年)に見え、「種市六郎兼高は忠孝深く苗字をかたどりて 種市村を名つけたり」と、斗賀観音御縁起に伝えられる。

また、正安3年(1301)「安藤きぬ女家族書上」には、種市は九戸四門制の東門とされている。

南部氏一族の光房を祖とし、のちの種市中務は南部晴政公より種市村・蛇口村(現軽米町)等を賜り、 また、種市中務光徳も南部信直公より当村など600石を賜るとされたいる。

九戸政実の乱に際しては嶋森城を夜襲し、ついにこれを陥れ凱歌をあげるも、来襲を受け多数の 臣族および種市氏の縁者が落命した。

慶長19年(1614)、大阪冬の陣には南部利直公に従って参戦したという。

ここに種市氏の居城であり、多くの戦死者の菩提供養のために、この地に等寺が建立された由縁である。

盛岡藩街道改修で知られる鞭牛和尚は当寺四世住職である。江戸時代の初めは盛岡藩領であったが寛文4年(1664)からは八戸藩領となった。

宝暦13年(1763)、火災により本堂・庫裏等を焼失。竹林専輔・小林義房らが土地・建物を寄進・建築したという。

安永5年(1776)五世天霊和尚代に熊野神社の堂入魂供養をし、寺の鎮守として4月15日を法縁日と定めた。

その後、10世祐山和尚代に、本堂・庫裏等、威容を誇って再建され、学僧が絶えず十数人いたと いわれ修行寺として名高かったという。

明治4年、城内大火で類焼、一部の古文書・過去帳を残したのみで全て灰燼(かいじん)と帰した。 境内には杉の大木や大銀杏が往時の名残を留めている。

明治30年、18世雄禅和尚代に檀家を分けて新寺・東海寺が建立される。

現在の本堂は、戦後の困難な社会状況の中、檀信徒よく尽くし、18世雄禅和尚、19世法運和尚の悲願により 昭和34年、20世嶺仁和尚の代に建立されたものである。

平成10年、第45代南部利昭公揮毫の種市家門一族供養の報恩碑が建立されている。

東長寺の景観

東長寺本堂正面写真です

住職の紹介

住職の東井千明の写真です

修学歴

宗門歴

社会歴


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